エサレン、クラニオ、そして瞑想と外から見ると3つの別のことをしているように見えるようで、「結局ゆかりちゃんは何をしている人?」とか、「どれが本業?」と聞かれることがあるのですが、私がしているこの3つのアプローチに共通しているのは「ゆだねる」プラクティスや体験をみんなにお伝えしているのだと思うのです。
私たちは子供の頃から、「頑張りなさい」と声をかけられていたと思うのです。今でも「今日はお仕事なんだー」というと、「頑張ってー」と(きっと)無意識の挨拶のようにお返事をいただいたりするくらい、「頑張る」が日常の中に当たり前になっているように感じます。
ヨガのアプローチも結構この「頑張る文化」の中にあるように感じます。だからこそ、ヨガだけを練習していた頃には気がつけなかった「ゆだねる」の大切さ。
テーラワーダのお寺で学び、エサレンに触れ、クラニオを学んで感じた「ゆだねる」ことの大切さ。なんなら、「ゆだねる」さえできたら、それだけで完了だと思う。
・こうなって欲しい
・こんな風でありたい
そう思うこと、願うことは全然悪いことではありません。人間だもん、願いがあってもいいよね。そしてより良いと自分が思う未来に向かって願いが湧き上がって当たり前だとも思うのですよ。
でもね、「ゆだねる」が腑に落ちて、体感できるようになると
・こうなってもいいし、ああなってもいい
・結局自分にとって悪きことは起こらない
という信頼ができてくると、結果に執着しなくなると思うのです。
そして、自分の思い描く結果と違うことが起こってもアレンジができることを知っているから、無理やり自分の想像通りのことが起こるように、試行錯誤しすぎない。
想像通りに執着がない。なんなら、想像していたことよりも、もっと素敵な何かは起こるかもしれないという「お楽しみ感」まであったりします。笑
これを仏教的に言葉にしたのが、「他力」だと思うのです。
仏教最高!笑
さすが、生き方の取説!
みんなが知っている「他力本願」の「他力」。
ですがこの「他力」、別に自分は頑張らないで、人頼みにしておけば、自分の望みのようになれるから、誰かを頼ってたらいいよという「怠惰」を奨励する意味ではないです。
本来の意味はというと、自らの力ではなく、阿弥陀仏の力によって救われるという考え方です。
私は個人的に、修行って頑張れば頑張るほど、修行前にはなかった新たな執着が生まれて、余計に智慧から離れてしまうよ。早めに自分の力で「知ろう」とすることを諦めて、ただ眺める意識でいてみなさい。そうすると、自然と智慧がそこに現れますよ。という意味ではないかと私は捉えています。
どう?
「ゆだねる」そのものではないですか?
私たちの知識なんて、大いなる智慧からしたらちっぽけなものだと思うのです。そんなちっぽけな知識なんてものを総動員したところで「知る」ことができること、理解できることなんて大したものではありませんよ。だからこそ、思考で理解しようとしても、そのちっぽけな世界の中をぐるぐる回るだけで、言い回しを変えて「知った」つもりになってしまうだけ。時間が経ったら、また似たようなことで思い悩んじゃったりしちゃうかわいいもの。
でも、頑張らなくても太陽が今日も昇るように、大いなる秩序、智慧はそこにある。私たちはその一部。だったらそれを観察する意識でいることが「知る」ことができる唯一の方法なのだと思うのです。
「ゆだねる」奥が深いです!
まずは体をゆだねてみる、そしてその体に呼吸をゆだねてみる。沸き起こる思考を眺め、感情の動きを眺め、そこにある五感を感じ続け、それを味わうように感じ続けてみる。仏教的にはこの五感プラス想念を「六根」といいます。
この「六根」を通して今にあり続け、それを認識し続けること。
そのプラクティスを私は瞑想だけじゃなく、エサレン、クラニオを通してしているのだと思うのです。
そしてその副産物として、自分が考えることができるよりも、もっと自分にとってベストタイミングでベストなことを受け取ることができるようになっていく。
なんて素敵な「ゆだねる」在り方!
是非是非みなさまも取り入れてみてね♡
◉ありのままの自分に戻る時間◉
◉心とからだのバランスをとり戻す◉
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