「ゆかりちゃんって怒らないよねー」と先日から何度か言われることが続きまして。
私、若い頃は ”瞬間湯沸かし器” と言われるくらいにオコリンボだったのです。
なんなら、高校生の頃怒りで気が遠くなって倒れそうになったこともあるし、怒りの感情で電球割っちゃうくらいのTemperでした。えへへ。
それが、なぜ怒らなくなったのか。
まー年齢?笑
それと、気づきが間に合うようになったからですかね。
「怒り」という感情って2次的だったり3次的だったりだと思うのです。
「怒り」になる前には繊細に心が反応しています。
・こうであって欲しかった
・そうしないで欲しかった
・わかって欲しい
・残念だ
・悲しい
そこから発展しての「怒り」。なんだけど、心の反応ってあっという間にぐるぐるっと展開してしまう。
「カチン!」と急にくるように感じるけど、繊細に感じられるようになると「怒り」の前には、「願い」があるのだと思っています。
だから、今では怒ることはほとんどなくて、「あら、ざんね〜ん」とかって笑ってる事が多くなりました。
だって、残念だなーっと思うんだもん。笑
「願い」というのは、私の中にあるものです。
それがその通りになる時もあるし、そうならない時もある。
それはとても自然なことで、お天気の時もあるし、曇りの時も雨がふる時もあるのと同じ。
だからと言って、相手にそれを押し付ける必要はない。
だって自分の中に起こっている反応なだけだから。
で、私の場合は、それを共有したい時、あるいは伝えたいと思う時、そして気が緩んでいる時(えへへ)などに言葉になって「残念」だと言葉にしているんだと思います。
「残念」だと感じる自分が悪いわけでもないし、そのきっかけになった事や誰かが悪いわけでもなく、ただ今自分の心に「残念」だという感覚が湧いてきているだけ。
そして、それを繰り返したくない時にはちゃんと伝えます。
だってそうしないと、また起こる ”可能性” が増えるじゃない。
そしたら、自分にまた「残念」な体験をさせてしまう。
そんなの、もったいないよね。
「起こってもしょうがないけど、起こらなければ嬉しいわ」という感覚です。
相手か自分か、どちらかが我慢するっという感覚は持ち合わせていないので、「残念」の可能性は低い方が私は好みです。
自分が「怒っている」という感情を押し殺してしまう必要はありません。
そしてその前に気づけるようになって「残念」だったり、「悲しい」「寂しい」「わかってほしい」などという思いだって、押し殺してしまったり、見ないようにしたり、変換させたり、しないようにいるのをオススメしたい。
感情って、感じないようにしても無くならないのですよ。
なんなら、体の奥にしまい込んでしまって、発酵しちゃう!笑
そして、いつまでも燻ってしまって、思考を刺激し、何だかんだとそれを理解しようとしたり、自分の成長に繋げようと物語が膨らんで、こんがらがってしまうのです。
だからこそ、シンプルに!
「あら〜ざんね〜〜ん」と笑える間に ”自分の中に何かしらの反応がある” と認めちゃうのがオススメです。反応って自然なもの。無理して無くさなくていい。
だって人間だもの("みつお” 的な。笑)
感情があるから、楽しいと味わえる。
その反対もあるだけです。
誰かを「悪者」にしないように一生懸命になる、優しい人は知らない間に「自分」を「悪者」にしちゃいやすいと思うのです。
自分を責めないようにしましょう。
そして、だからと言って他の誰かも悪くない。
もし似たようなコミュニケーションでの関係性、状況や出来事が繰り返されるようであれば、そこに「前提」があることに気がつけるタイミングかもしれません。
・自分はこんな人だ
・こうであるのが正しい
または、無意識の間に「自分はいつもこうなってしまう」という思い込みはないだろうか?
そういった「前提」って中々気づきずらいのですが、それらは気がつくっというだけでOK!気がついたら、何かをどうにかしなくても、スルリと自分から離れていくことが多いと思います。
さてさて、あなたの中には何か「前提」はあったりしますか?
怒りを感じてもいいんだとまずは自分に許してあげましょう。
そうやって、実践を繰り返している間に、なんだか最近怒ってないなーとなってくるものだと思うのです。
いつでもあるのは自分の中の「反応」だけ。
それを見張るのではなく、宝探しのように、興味を向けてみられるといいなーっと思っております。
◉ありのままの自分に戻る時間◉
◉心とからだのバランスをとり戻す◉
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