さてさて、今年は自分の抱負的なものを手放してしまったのですが年始ですのでね。
なんとなく、抱負を持ってみようという方への一つのアイディアとして書いてみたいと思います。
20年近く、私は年の初めに”抱負”を持っていました。
ブログでもおすすめしたこと何度かあったと思います。
ヨガのクラスや瞑想友の会コスモフルネスでも毎年やっていたサンカルパ。
思考で考えるのではなく、なんとなく浮かんでくるまで体に聞いてみる。
今どんなことを体感できる自分でいたいかな?
何を大切に心に置いておきたいかな?
なんていうことを体や心の内側から「なんとなくそんな気がするぞ」と浮かんでくるまで
問いかけてみる。
そうすると、思考では「欲」(意欲のときもあれば、我欲の時もあると思いますが)がベースとなったものが浮かびやすいのですが、体とコミュニケションをとりながらゆっくりと呼吸をしていると、自分に対する「慈しみ」をベースにしたものが浮かびやすいと思うのです。
もしも、抱負を持ってみよう!という方がいらっしゃったらおすすめの抱負の見つけ方です。
そして、その抱負は毎日がっつりと取り組むのではなく、頭の片隅に置いておければ
忘れちゃっても大丈夫。
なんとなく、年始にそう浮かんだことって一年が過ぎて振り返ってみると
ちゃんとそれに沿った体験ができていたりするものだと思うのです。
なんて言いながらも今年の私は「抱負」もういらないかなーという感じがするので
やらないのですが!笑
マインドフルネスの実践を続けていると、毎日の生活、一瞬一瞬の感覚が色こく
リアル感がましていきます。
修了生の方のいつだったかの振り返りの感想で「3ヶ月の実践で、生きているという感覚が感じられるようになりました」といただいたことがあるのですが、本当、その感覚です。
毎日の生活の活動が「作業」となってしまうと、今の感覚が薄らいじゃう。
食べていても、お腹は膨れるけど、味わえていなかったり、お掃除していても、埃は取れるけど、心ここに在らずで綺麗にしている感覚が薄く、やったぞ!という実感が少なかったり....。
そんな風に過ごしていると、気がついたら今日も終わっていた...なんてことになりやすい。
それが、マインドフルに味わいながら、作業が「体験」になっていくと、実感として味わえるようになるんだと思うのです。
実感を伴っているからこそ、充足感が自然とそこに現れます。
それが「生きている」という実感となってくる。
実感があるから「生きがい」を見出しやすくなるんだと思うのです。
人にとって「生きがい」って、なんていうんだろう。
生きる意味につながるというか、味わいをプラスしてくれる素敵なものだと思うのです。
それが、昭和の私たち世代にとっては「評価」や「成果」だったりしたのですよね。
でも、物を物差しにしていた時代から、情報やものが溢れ、そこじゃないよねと気がついた
心の時代の今、その生きがいは「評価」や「成果」では、もっともっとと、ゴールを知らない競争のように、いつまでも果てしなく、「これじゃあ、足りないんじゃないか」という不安につながってしまうと気がついてしまった。
だからこそ、今日のタイトル「自己完結できる生きがいを!」です。
「生きがい」なんて書くと大袈裟に見えてしまうのですが、とってもシンプルなことでいいんだと思うのです。
「あー、心地よいなー」とか「これが好きだなー」と感じられること。
例えば、私の母は絵を描くのが好き。別に書いた絵を誰かに褒めてもらうために描くんじゃなくて、ただ好きだから描いている。それって立派に生きがいじゃない?
私の場合は、感じて気づくことが好きだから、日々気づきに意識を向けてみる。味わい、感じることができたら、それだけでも楽しくてしょうがいないんです。笑
成果を目的にしていない。
評価を必要としない。
そんな何か。
そして、大切なのは自己完結できること。
随分前になるのですが、どうしても生きるのが苦しい友人がいて、「どんな風に毎日過ごせたら幸せと感じる?」と質問をしたら、「子供たち(もう30手前の娘と息子)とそのパートナーたちと食事したり、出かけたりしている時」と返ってきました。そして、「将来は孫の面倒を見れたらそれが幸せ」だと。
とっても素敵。ほんと、子供達や孫に囲まれてみんな笑顔で過ごせたら、それって幸せに違いない!
でもね、それは自己完結できないものなのです。
だから、そこだけに幸せを感じられる。1人では幸せを見出すことができない。となってしまうと、子供や孫へ無意識のプレッシャーが生じてしまう。
それって、親として、子供には負担をかけたくないっというのと矛盾が生じてしまわないかしら?
もちろん、家族の幸せって本当に素敵なもの。だからそれを否定しているのではないっというのは大切なことなので、もう一度!
それはそれとして、グリコのおまけのような!笑
自分も、子供たちも、その他の家族のメンバーもそれぞれ心が独立して幸せであって、そこにプラスアルファされるものであったら尚素敵じゃないですか?
でも、お母さんが幸せを感じるために、”自分は忙しい”、”余裕がないけれど”、一緒に食事をしてあげなければ....とかって子供に感じさせてしまうのは、どう?
それは、なんだか残念スパイラルな感じはしませんか?
少しずつの歩み寄り、それには心の独立性が必要。
そしてその独立性が欠けてしまうと「誰かの自己犠牲」につながったり、「共依存」に繋がってしまったりすることも多いのではないかしら?
みんなで幸せを増幅させるためにも、自分が自分で幸せでいることができるように。
自分を慈しむ時間を自分で作ることができたらそれが心の独立への一歩だと思うのです。
誰も、誰かのために生きる必要はなく、自分のために生きる。
でも、自分1人で生きているわけではないので、お互いを思いやり、共に生きていけるありがたさを忘れない。
そのための「自己完結できる生きがい」です。
そして、どんなに好きなことでも「誰かの評価」に重きを置いてしまうと、それもまた「自己完結」できないものになってしまいます。
好きだからしているのか、褒めてもらったり、認めてもらうことによって自分の価値を確認したくなっているのか。
例えば、私のライフワークの一つとしてボディワークをしていますが、初めの頃ってやっぱり受けていただく方に喜んでいただいたり、「緩みましたー」と言っていただくのがとっても嬉しかったのです。
今ももちろんそんなご感想をいただくのは、とても嬉しいです!
エサレンというボディワークは心にまで届くと言われているように、さらに「緩んだからこその気づき」を受け取っていただけた時にはもっと嬉しい。
でもそこ(受け取り手の体験)にばかり重きが言ってしまうと、「自己完結」でなくなってしまいます。
「緩みましたー」のご感想をいただくと、「あーそこまでしか働きかけられなかったか...」と残念に感じてしまうということを言っていた友人もいました。
もちろん彼女は、それによって息苦しさを感じてしまうことはないので、淡々と自分のセッションを深めるようプラクティスを続けているのですが、誰かの「反応」に重きを置いてしまうと、どんなに好きでしていることでも「自己完結の生きがい」でなくなってしまいます。
それが、好きを仕事にすると苦しくなるっという定説にもつながるのかと思うのです。
「自己完結の生きがい」としてライフワークをするのであれば、”自分が好きでしている”ということと、受けとっていただける方がいるという感謝、そしてその「結果」はその人のものと、自分のものがあるのだという「同化」してしまわない意識。
その人の感想はそのままに。でもありがたく自分の「経験」としてそのご感想もまた自分が受け取る。(やだ!文字にすると、禅問答みたいになっちゃう!笑)
自分が好きだ、夢中になれる!というもの。
そこに「評価」や「結果」を伴わせず、その行為そのものの時間、体験を楽しむということ。
それが「自己完結の生きがい」につながるのではないかしら。
例え話を交えている間に話が膨らんでしまった!!!
えへへへ。
もの作り、お散歩、家事、活動、どんなことでもいいと思うのです。
何か大それたことでなく、夢中になれる時間をただ楽しむ。
マインドフルネスを続けていると、毎日のなんでもない生活そのものが、味わい深くなり、それを味わっているだけで、「自己完結の生きがい」となることm多いと思うのですが、まずは何か夢中になれるものが助けになってくれることもあります。
いかがでしょう。
「自己完結できる生きがい」、ヒントになっていたら嬉しいです。
◉ありのままの自分に戻る時間◉
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