時々、ヨガ先生などから
ねーねー聞いてもよいー?っと瞑想やマインドフルネスについて
ご質問の連絡をいただくことがあるんです。
私、みんなの疑問が分からないので、質問していただけるって
いつでもどんな時でもとってもありがたい!
それが、同業の方達から質問だと、尚更嬉しい!
そうやってみんなで気兼ねなくシェアしていけるって素敵よねー♡
さてさて、先日もそんなラインを頂きまして
ちょっとわかりやすく説明できたんでない?っと感じたので
ここでもシェアできればっと今日はラインの返答をそのままシェアしちゃいます。
えへっ。
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<質問>
お聞きしたい事があるんだけどマインドフルネスも最後は解脱を目指すものなの?
かなりはしょると、自己肯定感を高める瞑想なのかな~?と思っていたんだけど。
どうなのかな~?と思って。
教えてくださいませませ。
<私のお返事>
ヨガって健康体操なの?悟りを目指すの?
っという質問と似ているかなーっと思うの。
マインドフルネスも何を求めてはじめた?っというのによって違ってくるだろうし、深めるウチに理解も深まってくるものだと思う。
そのプロセスの中には、自己肯定感を育む時、物事のありのままをみようと試み、その在り方に気づく時、ありのままのその奥がみえてくる時。それが進むから無明という無理解から解放され、それが解脱というプロセスに達してしまう事もあるよね。っていう所じゃないかしら?言うてもベースはテーラワーダだもんねー。ただ、今の日本ではストレスケアとしてのプロセスがよく知られているよねーっ的な😃
集中も瞑想もするものではなく、起こるものっというのと同じで、体験は深まり、そこから理解が深まるもの。だからこそ、何を求めてその道を行こうといているかに寄るんでない?
<質問>
瞑想をしたい方がいてね、私が内観をする時に体の一つ一つを感じていきましょうという言葉を使っていたの。
そしたらその方が他で瞑想をした時に客観的になりましょうと言われたらしく今までやってきた事と違うと悩んでしまったらしい。
どちらも瞑想のプロセスだと思うんだけど、感じるという言葉は主観的な行為だなーと思い始め、でも客観的になるというのも正しいと思うからどのように説明してよいか.....
アドバイスお願いしまする
<私のお返事>
混乱するよねー
感じてみようっというのは、自分への興味関心を向ける一歩目なんじゃないかな?
普段、外へ向いてばかりの興味関心を自分の感覚という目印に向けてみる。
で、慣れてくると、「感じている感覚に気づく」が始まる。
これが所謂「客観的」のはじまり。
「感じていることに"気づいている意識"」が神聖な自分ですよっというのは、仏教でもヨガでも同じ捉え方だと思う。
感覚に気づけるようになってきたら、思考も同じように移り変わる現象として気づけるようになってくるよね。そうすると、思考も体の感覚も自分ではなく、自分という命(意識)の乗り物であり、自分の体験を知るツールだと、自然と内側から体感し、気づく時がくる。
そして体験が積み重なる事で、自分という小さな自己認識から大いなるものの一部として自分を捉えられるようになるんだと思うの。
そこへ向かう道筋は、プロセスとして、色んな表現を使う事もあるし、いろんな道筋もあるんだという事かしらん?
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っといった感じのやりとりでした。
(個人の特定には繋がらないよう、個人的な内容は削除してシェアしております。)
瞑想ってその人の体験によってしか深まっていかないですよね。
だから時には、反対のことを言葉にしてお伝えするときもあります。
例えば、
「思考に気づいたら、思考から離れて呼吸に戻りましょう」
っというガイドから
「思考に気づいたら、その気づいたことに気づき呼吸に戻りましょう」から
「思考に気づいたら、その移り変わりを眺めつつ呼吸を感じましょう」
そして、
「何も気づく必要もなく、ただここにいてみましょう」へと変わっていく。
これはどれも同じことをしていますが
瞑想初心者の方に「何も気づく必要もなく、ただここにいてみましょう」っと
ガイドしてしまうと、ただぼんやりしてしまう時間になってしまうんです。
ありのまま、ここに自分をおくっというのは
ぼーっとしちゃってたらいいよねーっというのとは違う。
この辺りをすごくわかりやすく表現しているのが
十牛図だと思うのです。
だから、十牛図って好き!
そうだ!
今度コスモフルネスのマニアック講座で十牛図をやってみよう!
◉ありのままの自分に戻る時間◉
◉心とからだのバランスをとり戻す◉
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